双撃日記

「中華ガジェット」はわが癒し。

「アイフォ・スタバニア」の流儀

「アイフォ・スタバニア」の世界では「のようなもの」が大切である。実際にそうであるかどうかよりも、まさにそのように見えるというのが大切なのだ。つまり、スタバでドヤる時も、「どことなくクリエイティブっぽいヒトがいかにもデキる」ような体(てい)で、MacBookを触っていることが大切なのだ。本人もそのイメージに自己耽溺し、周囲もそれにダマされようとしている。まさにMacBookがそういうツールであり、スタバがそういう場所だというイメージを纏(まと)っているからだ。

そのことを端的に書いた本もあった。

 

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ヒトによっては「ウソだ」とか「バカバカしい」とか言うけれど、こうしたものを人々が望んでいると考えて、こういうものをこのリアルな世界にもたらしたアップルやスターバックスはスゴいと思う。又こうしたものでハッピーになれる人々の感性も悪く無いと思う。こういう消費スタイルが隆盛な中で「たかがパソコンだろう」「結局、喫茶店なんだろう」と言い切ってしまう方がどこか感性的に欠けている、って言うか、「オヤジ」だ。

 

 

 

 

 

 

 

Android端末で過ごす。

今日は台風21号の通過で家の中で過ごすことになった。それでLG電子の10.5インチと中華タブ7インチで色んなサイトを見たり、読んだりすることにした。

AppleiPadiPadミニで過ごすようなもんだ。サイト見たりする分には何の不便もない。ハードのコストは3分の1。オブジェの安物さゆえに扱いに気を使うことは無い。そういうイージーさがとってもいい。って言うか、Appleの良さはブランドの力であって、ハード的にはAndroidで何の遜色も無い。

ついこの前までAppleストアに行って、新しいAppleを手に入れようとしていたが、ホントにそんな価値あるのかと思う。「ある」と思えば「ある」だろうし、「無い」と考えれば無いだろう。

そういうブランド力に価値を置けばAppleという選択になるだろうし、実質だけで行った方が気持ちイイということならAndroidだろう。今の気分で言えば、Androidに決めてしまいたい。 

Androidにはハードとしての魅力は殆ど無い。しかし、それゆえにコンテンツそのものに集中できる。こういう「潔さ」を大事にしたいと思っている。つまり、Appleの半分どころか3分の1もいかない、「安物」AndroidGoogleサービスで知的生産を行い、色んなサイトを見て回るのだ。そして、オシャレ度を端末のようなハードに求めるのではなくて、自分が見るコンテンツに優雅さを求めるのだ。

やっぱりAndroidで行くか。

ここんとこ「Appleでなきゃダメ病」にかかり、Appleストア巡りして、iPhoneMacBookとの連携とか、iPadどれがいいか、あるいはAppleウオッチは必要かとか真剣に考えていた。

しかし、昨日オープンしたばかりの京都Appleに行って、そこで感じたのは、「Appleでなきゃいけないの?」ってことだ。やっとまともな神経に戻れた、って感じ。

今、iPodとかiPhone、複数台持ち歩いているけど、実はそんなに必要ないのだ。このHuawei1台、最新のものがあれば、十分やっていける。そう、確信した。

Androidに戻る。

東京に行ってた。今回2回目なんだけど、前よりもファッション中心に見てきた。そんな中で感じたのは、Android心強いってこと。いざって言う時は役に立つ。ヤッパ、なんかAppleには脆弱さが付きまとう。安心感はAndroidの方が上だと思った。それから東京行って感化されたんだと思うんだけど、もっと「都会的に洗練されたもの」を求めたいと思った。それだったら、Apple製品になんか入れ込んで何でもかんでもAppleって違うだろうと思えるようになってきた。ハードに入れ込んで、何でもApple製品を触る理由に仕立ててしまう。こういう「ナードな」ことって良くない。で、Apple製品に入れ込むの辞めることにした。

って言うか、ガジェットに拘るの、なんか疲れてきた。そういうことなのかも。

 

iPhoneアディクションを少し修正する。

自分に敢えて「どやラー」となることを課し、それをもって自らの健康法としていたが、あまりにもiPhoneに入れ込んでしまって、隙あらば新しいiPhoneiPadを買おうとしている。確かに「どやラー」となることで、アルコールにスナックという悪習を断ち切ることが出来るのだが、何万円も注ぎ込んで不要な端末を買ってしまうのは頂けない。

それに、iPhone8(エイト)やX(テン)を買ったところで、今使ってるHuaweiP20と殆ど差は無いだろう。だったら、Android端末で十分だと思うんだが、どうもそれでは「どやラー」ごっこに力が入らない。

とにかく、これ以上新しい端末を買う必要は無い。それだけは肝に銘じておかないと。

 

曲がりiPhoneへの愛情を語る。

この文章も「曲がりiPhone」で書いている。ホント、横から見ると凹面鏡のようになっている。でも、前のようにしょっちゅう画面フリーズして、タップしようがフリックしようが何も受け付けないのよりはずっとイイ。アップルストアジーニャスバーでの検査の後、余計症状がひどくなってエアタップ出まくりだったのが、全消去+リスタートで「完全治癒」した。何が良かったのか未だに分からない。

あんまりにも、この「曲がりiPhone」のもたらすものが快適なので、実はもう一台白iPhoneの「7(セブン)」を買おうかとも思っている。バカバカしいんだけど、やっぱりiPhoneって、特別なオーラと満足感があって楽しい。

どうなった「どやラー」健康法。

「どやラー」に使ってるiPhone6の液晶の反応が遅くて、アップルストアで修理見積もりをしてもらったり、次の中古端末を電気店街で探したり、色々とやっているうちに、もしかして、私が普段こういった端末でやっていることは、iPhoneぢゃなくてもAndroid端末で充分出来るのではと思うようになった。新しいiPadでサイトを見たら、さぞ見やすかろうと言っても、それは今自分が持っている10.5インチのAndroidタブレットで、同等以上のことが出来るのではないか。そう思うようになった。

確かにそうだ。Androidでも同じか、それ以上のことが出来るかもしれない。でも、ダメだ。帰って頭冷やして考えたら一層そう思った。つまり、Appleでないとダメなんだと。

今だってそうだ。ネットに繋がったAndroid端末があるのに、ルーター運用で、このiPhoneをイジっている。iPhoneを触ることで得られる安堵感ってどっかにあるのだ。それが全くの錯覚だとしても、私の中にあっては確かに効果がある。だから、Androidでも一緒だなんて全くもって思わない。

ところで、この文章は、その昨日絶不調だったiPhoneで書いているのだが、今のところ全く問題なく使えている。何でだろう?特に昨日の診断プログラムを受けた後はエアータップが激しくて、とても使えたもんじゃ無かった。文字や数字の入力もドンドン勝手になされていくのだ。あんまりにも腹が立つので、思いっきりディスプレイを強く押してやったら、心なしかiPhoneの筐体がビミョーに湾曲してしまった。

しかし、その強い圧迫でディスプレイか基盤の何かの接触が良くなったのか、全てを消去してリスタートすると、今のように、入力に何の問題も示さなくなった。私的にはとっても喜ばしい。

やっぱり、スタバでドヤラーするには、Apple製品(正しくはMacBook)でないと気分でない。

これからしばらくは、この復活した白iPhoneの手触りを楽しみながら「ドヤラー」してみたい。その「手触り」を楽しむためには、カバーなんて外してしまった方がいいのかも。かつてiPodにカバーなんか付けなかったように。