「英語」ラーニング、はじめました。
自分でもよくも毎日飽きずにタブレットで駄文を書いているもんだなと思う。でも、テレビを見てて思ったんだけど、私にとってこういう駄文を書くことは、絵描きが毎日朝から晩までスケッチしたり、キャンバスに向かっているのと同じもんだと思った。書くことが目的だというよりも、それが毎日の呼吸のようになっているのだ。欠かすことはできないが、それで何か特別なものが出来ると思っている訳ではないのだ。
なんでも書ければいいということで、今回はタブレットとは全くかけ離れたことでも書いてみよう。って、言うかホントはとっても腹立たしいことがあったんだけど、そんなのに真正面から絡め取られたら、向こうと同じことになっちゃうので、なんか楽しいことでも書いて気分変えることにした。それは英語を又真剣に勉強しようと思ってること。
私の英語ラーニングはかなり下心があるもので、根底には女の子と仲良くしたいっていうのがある。英語ほど女の子とスムースに仲良くなれるものを他には知らない。英語ラーニングすることでたくさんの女の子と仲良くなれるし、話題もどんどん深まって仲良くなれる。よく英語は、世界の人との「コミュニケーションツール」だと言うけれど、私にあっては女の子と知り合いになれるツールが英語って感じになっている。そもそもはホントに英語が好きで始めたんだけど、やっているうちにその本質とは違うところに価値を見出してしまって、今に至っている。でも、それって悪いことかな?女の子に何かを無理強いすることなんて決して無いし、英語だってやってる時は英語やそのコンテンツを楽しんでいる。これって文化的って言わないかな?
まぁ、いい。とにかく最近知り合った女の子が英語通じて仲良くなれそうなので、また英語にチカラ入れることにした。しばらく、それで、行ってみる。
中華タブ、、、何なのか、この喜びは?
iPhoneっていうか、Apple製品の質の高さ、佇まいの良さなんかを再認識して、Apple使いに戻ろうとしたが、結局Apple製品の持つスマートさが過剰な消費と物欲の喚起に繋がるということが分かってきて、中華タブに戻ってきた。しかし、それは私にとって残念な選択ではない。確かにApple製品は洗練されているものの、いつの間にかAppleの製品サイクルに自分の「欲しい」欲望が絡め取られている。なんだか自分の物欲さえコントロールされている感じを持つのだ。確かに最新のApple製品を巷で見るのは楽しいし刺激的だが、大枚叩いて自分で買うのは「違うな」と思う。逆にこうやって中華タブを操っていると、なんだかホームカミングした安堵感を覚える。やっぱり自分はこの路線だと確信する。
iPhoneを見直す、、、のをやめる。
昨日、カフェに放置された白のiPhoneを見つけた。バージョンとしては5sなんだけど、とっても神々しく見えた。やっぱりApple製品にはガジェットとしてのしての華がある。これまでは、その華がなんだか煩わしいっていうか、敷居の高さを感じてなんとなくiPhoneを使う頻度を減らしていたが、あのガジェットの魅力を再確認して、もっと使おうと決心できた。自分で買ったものをなかなか使えないなんて馬鹿な話なんだけど、それゆえ安物然としている中華タブレットは自由に使えたのだろう。
と書いたのが四日前。その流れでApple製品をメイン使用にすべく動いていた。もう使いにくい中華はやめて、Appleガジェットで行こうと決めていたのだ。とすると、どうだMacブックなんかを買おうともう画策している。アブナイ。アブナ過ぎる。せっかく浪費生活をやめる決心がついたのに十万単位のお金をいとも簡単に使おうとしている。こんなことだったら、まだ中華ファンでいる方がいい。Appleへのシフトは高価買いの戸口みたいだし。それだったら、中華タブファンでいる方がいい。なんか格好つけ出すと際限無くお金を使うことになるだろう。そういうことで私はAppleファンへのカンバックを止めておく事にした。何だかんだでサイフにやさしい中華タブ、あらためてヨロシうお願いします。
タブレットでチープシックに楽しむ。
年末から正月三が日にかけて、これと言った出費も無く過ごすことができた。本屋行って新刊買ったり、レンタルビデオ借りたりしなかったからだ。これも「ミニマリズム」的な発想の賜だと思っている。モノを減らし、無駄な出費をせず、スッキリと暮らす。そうした感覚が無駄な出費を無くしていっている。こうした「チープシック」生活で活躍してるのがタブレットだ。この端末さえあれば大抵の楽しみは手に入る。
ネットが街中で自由に繋がるっこともなく、タブレットやスマホも無い時代だったら、こんなチープシックな過ごし方は無理だろう。ネットとタブレット、それにカフェがある種の都市インフラとして充実したからこそ、こうした過ごし方が可能になったのだと思う。
なぜだか中華タブレットっていうのは、ドミトリー生活にピッタリだと思った。ドミトリーでは自分のスペースとしてはベッドだけがあてがわれるのだが、その狭いベットの中で中華タブレット触ってネットするのがピッタリくる。なんでなのかは分からない。
ガジェット趣味を脱する。
iPhoneをandroid的に使う。
今日は一日外にいるのだが、iPhone5(sでは無い方)をパートナーに持ってきている。それでわかってきたのは、このiPhoneの使い良さだ。ハードがしっかりしているので、何かと扱いやすい。見にくいとか、タッチへの反応が悪いとかいうことがない。 これまでは中華タブの面白さが、Appleの製品の安定性に勝っていたので、中華タブを夢中で使ってきたが、こんなに使い良いなら、やっぱりiPhoneかなぁと思う。 それでも、Googleのサービスは欠かせない(メール、地図、ニュースなどありとあらゆるものがGoogle頼りだ)ので、Google的に使いたい。 しばらくはiPhone5(それでもかなり時代遅れ)でいってみよう。
「双撃」アディクション
10体ものスマホ・タブレットを持ってるけど、メインで使っているのはこの「双撃」だ。一番安物で画面なんかも最も見にくいタブレットなのにメインで使っている。画面が見やすくてホールドしやすいiPhoneなんかでブログしてると、どうしようもなく「双撃」で書きたくなってくる。何がそう思わせるのかわからないけど。とにかく私の「ペン」っていうか、入力装置はこの双撃になっているようだ。
って、ここまで書いて突然思ったのは、この「双撃日記」もなんか書いてることワンパターンになってきた。そもそも内容の無いブログなんだけど、あんまりにも同じようなこと書いてると、大概にしようと思えてくる。
Macとかのブランドガジェットに入れ込んだら、その趣味にどんどんお金をつぎ込むことになる。無意識か意識的か、そういうのを恐れて「中華」に入れ込んだんだと思うんだけど、そもそもはそういう「安物」あるいは非ブランドを好きになれたら、ブランド消費のアディクションに巻き込まれずに済むということが感覚としてわかってたんだと思う。それをちゃんと意識していないと、巧妙に仕組まれたコマーシャル戦略に巧妙に巻き込まれてしまう。確かAppleのジョブズも言ってただろう?「(我々は消費者のニーズに答えるのではない。なぜなら)消費者は自分たちの真のニーズを知らない。新しい製品を示されて自分たちのニーズを知る」といった意味合いのことを。私たちの製品への欲望は周到に用意されたらコマーシャル戦略の結果なのだ。だから、何々が欲しいという「自分のニーズ」に従う必要は無い。もしそうした欲望の昇華がムリなら、欲望そのものをチープなものへの志向に変えてしまうべきだ。そういう意味でも私の「中華」趣味は以前のApple好きよりもずっといいかもしれない。
で、そういうふうにデジタルガジェットへの偏愛が収まったら、もっと他のものに目を向けたい。周りの世界には、買ったりしてお金をかけなくても楽しめるもの、驚きに満ちたものが沢山あるのに、ガジェットだけに気を取られて、そうしたものが見えなくなっている。だから、本来自分のガジェットへの偏愛を記録するつもりだった、この日記にもっと他のことで自分の興味を引いたもののことを書いていきたい。
今、NHKFMでやってる音楽とてもいい。「古楽の楽しみ」って番組で、16世紀から18世紀までのフランスの舞曲の特集らしい。