双撃日記

「中華ガジェット」はわが癒し。

iPhoneアディクションを少し修正する。

自分に敢えて「どやラー」となることを課し、それをもって自らの健康法としていたが、あまりにもiPhoneに入れ込んでしまって、隙あらば新しいiPhoneiPadを買おうとしている。確かに「どやラー」となることで、アルコールにスナックという悪習を断ち切ることが出来るのだが、何万円も注ぎ込んで不要な端末を買ってしまうのは頂けない。

それに、iPhone8(エイト)やX(テン)を買ったところで、今使ってるHuaweiP20と殆ど差は無いだろう。だったら、Android端末で十分だと思うんだが、どうもそれでは「どやラー」ごっこに力が入らない。

とにかく、これ以上新しい端末を買う必要は無い。それだけは肝に銘じておかないと。

 

曲がりiPhoneへの愛情を語る。

この文章も「曲がりiPhone」で書いている。ホント、横から見ると凹面鏡のようになっている。でも、前のようにしょっちゅう画面フリーズして、タップしようがフリックしようが何も受け付けないのよりはずっとイイ。アップルストアジーニャスバーでの検査の後、余計症状がひどくなってエアタップ出まくりだったのが、全消去+リスタートで「完全治癒」した。何が良かったのか未だに分からない。

あんまりにも、この「曲がりiPhone」のもたらすものが快適なので、実はもう一台白iPhoneの「7(セブン)」を買おうかとも思っている。バカバカしいんだけど、やっぱりiPhoneって、特別なオーラと満足感があって楽しい。

どうなった「どやラー」健康法。

「どやラー」に使ってるiPhone6の液晶の反応が遅くて、アップルストアで修理見積もりをしてもらったり、次の中古端末を電気店街で探したり、色々とやっているうちに、もしかして、私が普段こういった端末でやっていることは、iPhoneぢゃなくてもAndroid端末で充分出来るのではと思うようになった。新しいiPadでサイトを見たら、さぞ見やすかろうと言っても、それは今自分が持っている10.5インチのAndroidタブレットで、同等以上のことが出来るのではないか。そう思うようになった。

確かにそうだ。Androidでも同じか、それ以上のことが出来るかもしれない。でも、ダメだ。帰って頭冷やして考えたら一層そう思った。つまり、Appleでないとダメなんだと。

今だってそうだ。ネットに繋がったAndroid端末があるのに、ルーター運用で、このiPhoneをイジっている。iPhoneを触ることで得られる安堵感ってどっかにあるのだ。それが全くの錯覚だとしても、私の中にあっては確かに効果がある。だから、Androidでも一緒だなんて全くもって思わない。

ところで、この文章は、その昨日絶不調だったiPhoneで書いているのだが、今のところ全く問題なく使えている。何でだろう?特に昨日の診断プログラムを受けた後はエアータップが激しくて、とても使えたもんじゃ無かった。文字や数字の入力もドンドン勝手になされていくのだ。あんまりにも腹が立つので、思いっきりディスプレイを強く押してやったら、心なしかiPhoneの筐体がビミョーに湾曲してしまった。

しかし、その強い圧迫でディスプレイか基盤の何かの接触が良くなったのか、全てを消去してリスタートすると、今のように、入力に何の問題も示さなくなった。私的にはとっても喜ばしい。

やっぱり、スタバでドヤラーするには、Apple製品(正しくはMacBook)でないと気分でない。

これからしばらくは、この復活した白iPhoneの手触りを楽しみながら「ドヤラー」してみたい。その「手触り」を楽しむためには、カバーなんて外してしまった方がいいのかも。かつてiPodにカバーなんか付けなかったように。

アップルストアに向かう。

今日も朝からスタバに向かい、そこで二台のiPhoneをイジってた。相変わらず白い方のiPhone6は、画面が入力を受け付けなくなって頻繁にフリーズする。前から思ってたんだが、このコーヒー飲んだら心斎橋のアップル直営店に行こうと決めた。

心斎橋のアップルには開店のほぼ1時間も前に着いてしまった。もう何組か並んでる。日光がもろに照らしてくる暑い中で。

どっかで時間潰して又帰ってくるかとも思ったが、まぁ、折角早く着いたんだから並ぶことにした。でも、この日照りの中1時間はキツい。

ただ少しすると、列は30メートル位になってた。早々に並んでおいて良かった。

開店と共に客は、誘導されて一列で入場。自分は6番目くらいか。

1時間も2時間も待つのかと思ったら、30分くらいで呼ばれた。カウンターに呼ばれ、スツールに腰をかける。事情を話すと、早速診断。ジーニャスバーのスタッフが持ってるiPad無線LANで繋いで、診断プログラムを稼働した。その結果、液晶に異常アリと出た。問題の修理代だが、液晶交換には1万5000円、もし基盤も交換ということなら3万円かかるという。

   このiPhoneは中古で買ったものだと言うと、もしかしたら過去に液晶を交換していて、それが純正では無かったのかもしれない、と言う。

  この金額なら、新たに中古端末が買える。とっさにそう思った。それで、修理はやめておきますと伝えた。

   あるいは、いっそのこと、iPhoneの新しいの買ってもいいかも。階下に下りて、陳列されているiPhoneを見た。iPhone8だと8万円くらいする。iPhone Xだと11万以上。やっぱり10万近い買い物になる。

   「中古を探すか」。中古を買ったがために、こんなことになってるのに、懲りない奴だ、私は。一駅電車に乗って、電気店街で見て見たが、前のモデルなどなるiPhone7でも4万円する。アップルストアではまだ新品のiPhone7が買えるが、それも5万5000円だから、かなり割高。メモリの差(32GBと64GB)を考えたら、エイトでも高くない。って言うか、iPhoneの中古相場が高すぎて、中古としてはかなり割高だ。

iPhone7の中古で16ギガなら1万5000円から2万円で買える。でも、さすがにメモリが16と言うのは容量が小さすぎる。

 あー、どうしたもんだか。

充電不足症候群。

今日はiPhone6の液晶の修理(かなりの頻度で無反応になる)のため、心斎橋のApple直営店に行ってきたのだが、ファーウエイのP20の充電をして来なかった。それがとても気分悪くて、わざわざ電気店街で充電アダプター(1080円で済んだ)を書い、わざわざ電源カフェを探し求めて歩き通し、やっと見つけたTully'sで540円のスイカジュース頼んで、やっとのことで充電に至った。

実はもう一台Xperiaがあるのだが、気分的にファーウエイの電気が無いのが許せない。ホント愚かな話だ。

電気店街では中古のiPhoneを見て回っていたが、ああいう電気店街って、歩いてるとなんかウンザリしてくる。所詮中古端末を扱ってるのだから、そんな高級路線でくるわけじゃ無いのだが、なぜだか「もう来たくない」とショージキ思った。

これからは、ファーウエイにしろ、Appleにしろ、新品を買うと思う。中古は結局のところ高すぎる。特に人気のApple製品がそうだ。近い将来、白いiPhoneを買うと思うが、まぁ、それは今日ぢゃ無い。

それに私の好きな「端末生活」がアンドロイド端末で出来るのなら、その方が安上がりだ。もうちょっとその辺は考えないと。

モバイルすること。

私の場合、「モバイル」することが命だ。って言うか、移動していないと落ち着かない。「移動」という刺激が無いと、何も生産的な事が出来ない。

しかし、それで何かスゴいことが出来るのかというと、そうでもない。つまり、知的生産という点で言えば、もたらしたものはゼロに近いものしか生み出していない。

それでも、この私の「モバイル趣味」は決して悪いものではない。なぜなら、それは私に、自分は「何か知的なこと」を「とってもオシャレに」為しえているという自己満足をもたらしてくれているから。

自己満足なんだとバカには出来ない。それが心身の健康にダイレクトに繋がっているんだということであれば、それはそれで意味があるということが今更ながら分かってきた。

なぜ「ドヤラー」的自己満足が健康に繋がっているかと言うと、自分が好きなガジェットを使って、仕事をバリバリしてるんだという感覚が幸福の感情をもたらし、その感情が私が様々な悪習に染まることを遠ざけてくれている。この辺の説明は自分でも解析不足で出来ないが、それを試みてみよう。

前に私は「ドヤラー」を「卒業」した事がある。理由はそのバカバカしさ、虚しさに気づいたから。判で押したようにカフェに行き、陣取ってMacBookを開く。しかし、やっていることと言えば、せいぜいガジェットのことをネットで調べたり、色んなブログを読んでいるだけ。余りにも非生産的で自己満足に過ぎると思ってやめてみた。

ところが、それをやめた私がどうなったのかと言うと、結局毎日のようにコンビニ飲みすること。コンビニのテラスの席に陣取り、安いビールもどきのアルコール飲料を飲み、当てに脂ぎったスナック菓子をつまんだ。それはそれで癒されるのだが、やっぱり何か違う。毎日飲んでいると、アルコールに対する意識も変化してきて、昼間っからビールを飲んだりするようになる。

こんな「悪習」に染まるくらいだったら、スタバ行ってコーヒーをあおり、iPhone持って自己満足に浸っている方がいいと考えた。

河川敷にて。

珍しく、このポストは河川敷で書いている。さっきまでスタバにいたんだけど、なんか冷房が効きすぎていて、体冷え切って、ここに来た。

かつて私は「河川敷愛好家」だった。自転車を駆っては河川敷に来てた。河川敷で体力を使い、河川敷でその時その時の季節を感じていた。

ところが、ある時からプッツリ河川敷に来なくなった。ソーシャルに比重を置くようになり、街中(まちなか)生活が中心になったからだけど、今日何故だか来たくなって来てみたら、なんとも言えない開放感と懐かしさに見舞われた。ポケットラジオでFMラジオ番組を聴きながら、ポタリングしてた。あの時が懐かしくなってきた。又、やってみようか。


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