ガジェット趣味を脱する。
iPhoneをandroid的に使う。
今日は一日外にいるのだが、iPhone5(sでは無い方)をパートナーに持ってきている。それでわかってきたのは、このiPhoneの使い良さだ。ハードがしっかりしているので、何かと扱いやすい。見にくいとか、タッチへの反応が悪いとかいうことがない。 これまでは中華タブの面白さが、Appleの製品の安定性に勝っていたので、中華タブを夢中で使ってきたが、こんなに使い良いなら、やっぱりiPhoneかなぁと思う。 それでも、Googleのサービスは欠かせない(メール、地図、ニュースなどありとあらゆるものがGoogle頼りだ)ので、Google的に使いたい。 しばらくはiPhone5(それでもかなり時代遅れ)でいってみよう。
「双撃」アディクション
10体ものスマホ・タブレットを持ってるけど、メインで使っているのはこの「双撃」だ。一番安物で画面なんかも最も見にくいタブレットなのにメインで使っている。画面が見やすくてホールドしやすいiPhoneなんかでブログしてると、どうしようもなく「双撃」で書きたくなってくる。何がそう思わせるのかわからないけど。とにかく私の「ペン」っていうか、入力装置はこの双撃になっているようだ。
って、ここまで書いて突然思ったのは、この「双撃日記」もなんか書いてることワンパターンになってきた。そもそも内容の無いブログなんだけど、あんまりにも同じようなこと書いてると、大概にしようと思えてくる。
Macとかのブランドガジェットに入れ込んだら、その趣味にどんどんお金をつぎ込むことになる。無意識か意識的か、そういうのを恐れて「中華」に入れ込んだんだと思うんだけど、そもそもはそういう「安物」あるいは非ブランドを好きになれたら、ブランド消費のアディクションに巻き込まれずに済むということが感覚としてわかってたんだと思う。それをちゃんと意識していないと、巧妙に仕組まれたコマーシャル戦略に巧妙に巻き込まれてしまう。確かAppleのジョブズも言ってただろう?「(我々は消費者のニーズに答えるのではない。なぜなら)消費者は自分たちの真のニーズを知らない。新しい製品を示されて自分たちのニーズを知る」といった意味合いのことを。私たちの製品への欲望は周到に用意されたらコマーシャル戦略の結果なのだ。だから、何々が欲しいという「自分のニーズ」に従う必要は無い。もしそうした欲望の昇華がムリなら、欲望そのものをチープなものへの志向に変えてしまうべきだ。そういう意味でも私の「中華」趣味は以前のApple好きよりもずっといいかもしれない。
で、そういうふうにデジタルガジェットへの偏愛が収まったら、もっと他のものに目を向けたい。周りの世界には、買ったりしてお金をかけなくても楽しめるもの、驚きに満ちたものが沢山あるのに、ガジェットだけに気を取られて、そうしたものが見えなくなっている。だから、本来自分のガジェットへの偏愛を記録するつもりだった、この日記にもっと他のことで自分の興味を引いたもののことを書いていきたい。
今、NHKFMでやってる音楽とてもいい。「古楽の楽しみ」って番組で、16世紀から18世紀までのフランスの舞曲の特集らしい。
「双撃日記」でガジェット以外のことを書く。
そもそもこの「双撃日記」を始めたのは、スマホやタブレットなんかのガジェットに触りたくて始めたものだった。だから、内容もガジェットを触った感触みたいなことや自分がガジェットを触ってる時間のことを書いている。でも、そういうの書いてるともうちょっと内容のあることを書きたいと思うようになってくる。
どんな内容を書きたいのかってことを思った時思い浮かぶのが「最果タヒ」さんのブログだ。詩人である氏のことを知ったのは、たまたま産経新聞を読んでいてだ。金曜日の紙面に連載があって、それをスタバで読んでて「これ、イイな。センスいい文章だな」って感じた。
彼女のブログをイイところは、それが文字だけで成っているブログだということだ。そういうブログってあんまり無い。よくある売れっ子(だけど基本素人の方の)ブロガーの多くは写真があって、スカスカの文章があって、というものが多いので、文字だけでブログしてるのも結構スゴいって感じがする。
もちろん自分がそれと同じことができるとは思わないけど、自分がブログしていく方向をイメージするのにはイイお手本だと思う。
ただ自分が双撃以外のことで何かを書き連ねていくって結構ムズカシイ。そこんとこを何とか書けるようにインスパイアしてもらうために読むのがタヒさんのブログの文章なんだと思う。
雑誌「Mac Fan」を読む。
いつも「書くこと」と「読むもの」を求めている。(大したことは書かないし、そんなに真剣に読んでるわけではないけど)ネットにつながればブログやチュースサイトが何でもあるので、タブレットを開いてきたけど、やっぱり雑誌や新聞など実在のメディアを物理的に開くのには負ける。
私が特に気に入っている雑誌は「Mac Fan」だ。今も読んでいる(10月号だけど)。得てしてパソコン雑誌は程度が高くて洗練されてる記事が含まれていることが多い。一般の週刊誌よりも読むに値する記事がずっと多いと私は勝手に思っている。
「MacFan」のイイ所は記事(あるいはそれを書くライター)がスマートだということだけでなく、記事のレイアウトがステキだということ。特に巻頭のエッセイ(って言っていいのかな。)の写真と記事のバランスの取り方はかなり贅沢でなんかゴージャスな気分になれる。
Macって、カッコいいと思う。でも、私自身が街中で使うためにMacのノートパソコンを持つことはないと思う。
ここまで書いて思ったんだけど、やっぱりiPhoneでブログ書くの、この上なくスムーズだ。文章を自由に書ける、って点ではやっぱりiPhoneか。
双撃がなんでイイのか。
「中華」パッドって使ってて何かとストレスが多い。だから、さっさとそんなものにかまけるのやめてiPadでも使えばいいのに、そこから逃れられない、って言うか、やっぱり「中華」がスキで触っている。
ところで、私が年がら年中触っているタブレットは、私の生活を「加速」させてるのか、それとも私の生活の「足かせ」となっているのか、どっちなんだろう。私の感覚の上では、この7000円にも満たないタブレットはとてつもなく大きな働きをしている、と感じてる。例えば、仕事で作成する文書の文案(っていうか文章そのもの)は、このタブレットでやっている。職場では与えられたノートパソコンがある(新しいワードもエクセルもインストールしてある)のだが、あまり使う気になれない。それよりも職場を離れてカフェなんかで、文章を書くためにタブレットを触っている。要はタブレットを触りたくてしょうがないのだ。
そういう私だから、前述の質問もあまり意味が無いかもしれない。どういう答えが出たってタブレットが私には必要なのだ(完全な中毒!)。
あと、タブレットを触ることで結構「精神的安定」って得られていると思う。もしかした
ら、私はもっとストレスに起因する食べすぎや飲み過ぎ、あるいはビョーキなんかになってたかもしれない。でも、コンピュータを知ってからは、普通ヒトには話さないような、つまらないことをダラダラ書き続けている。悩みとか不満なんかを書くことは決して無いけど、そういうダラダラした「陳述」が私に限りないココロの安らぎを与えていると思う。そのことには前から気づいていて、それを「文書セラピー」って呼んでいるんだが、そのセラピー効果を高く持っているハードとそうでないハードがあるみたいで、前はベージュの中古マックだったが、今はそれが中華タブになっているという感じだ。どうやらあんまり洗練されすぎてるのはダメみたいで、どちらかと言うとセカンドハンド的な手垢のついた感じのものがスキみたいだ。なんでだろう?