双撃日記

「中華ガジェット」はわが癒し。

Apple 端末で書く。

ネットを見るのなら、やっぱり中華Androidの方がいいのだが、文章を書くとなると、どうしてもApple に傾いてしまう。これから中華で行こうと決心してみても、その決心虚しくiPadなんかで文章を打ちたいと思う。

もう、どっちにするかなんて決めるのは止めよう。もう両方でいく。って言うか、これくらいの「浮気」だったら、全然イイんぢゃないか?

なんか変に決めようとしてどれだけ時間と神経をすり減らしたか。もうこんなバカな人生の浪費、二度としたくない。不要と思った端末はヘンに高く売ろうとしないで、安くてもたたき売ってしまうことにした。大体直ぐに要らなくなるものを買う方がバカなのだ。

「勿体ない事をしたくない」なんて思ってるのがオカシイ。スマホを二台以上買う時点でバカなのだ。そして、私は自分にそのバカを許したのたこら、その後で賢く立ち回ろうなんて甘過ぎ。

ところでこの文章ATOKで書いてるんだけど、結構使えるかな。

 

で、これからはネットはAndroidで、何か書くのはiPhoneでやっていこうと思う。

スマホを無くしたと思った。

昨日バス中でカバンからスマホ(HuaweiP20)を取り出そうと思ったら無い。慌ててカバンの底をまさぐるが、やっぱり無い。「落とした!」と思った。さっきまで乗ってた電車の中では確かあったはず。いや、その後に寄ったスーパーで支払う時に落としたのか、いやいや、落ち着いて調べればあるはず。そんな感じで全然方向が定まらない。すぐにでもバスを降りて、明かりのある道端ででも、カバンの中を全部ブチまけてチェックしたかった。

バスや鉄道の落し物係に直ぐに連絡しなきゃと思ったり、Androidも確かiPhoneみたいにロケーションを特定したり出来たはず、アレどうするんだっけとアレこれ思ってた。ハードの紛失は確かにイタいけど、それ以上にロックを開かれてプライバシーが暴かれるのが不愉快だ。って言うか怖い。

ああ、しょうがない、なんて自分はバカなんだ、こういう事ばっかりしでかしてと思ってたら、隣に座ってた女性(学生くらい?)が降りた。ふと見ると座席のうえに私のHuaweiがあった。ポケットに入れてて落としたのかな(自分にはその端末をポケットに入れたという自覚は無かった)?バスは満員でギューギューに座ってたのだが、その彼女と私の間にずっと落ちてたみたい。

ホント、「ありがとう!」って思った。と同時にこのHuaweiの大切さを思い知った。これは私に大切な端末なのだ。なんかムダに沢山ハードを持っていて、自分でも分からなくなっている。

ちょっと、考え直さないとね。(何を?)

もじに

現在メインの機種としてHUAWEIスマホ(P20liteを使っているのだが、どうも電力消費が激しい。何でだろうと思って調べてみると、どうやらSimejiが常に動いていて電力を消費してるのだ。ちょっとコレは気持ち悪い。中国が常にユーザーを監視してて、そのデータをサーバーに送ってるのか?と本気で思ったりする。

それで今IMEの乗り換えを検討して、ATOKの試用版(半月の限定利用)を使ってる。この文章もそうだ。Googleの日本語入力もあるんだけど、インターフェイスが全く気に入らない。キーボードに仕切りの線が無いのもきにいらないし、キーボードの四方の端に入力ガイダンスの小さな文字があるのも気に入らない。それで有料だけど、パソコンの時から馴染みのあるATOKにしてみようと思ったのだ。

ただユーザーコメントを見るみると、あんまり評判は良くない。

しかし、今のところ、自分が使うには問題なし。

で、ここからはSimejiで書いてみたんだが、うーん、こっちの方がイイかなって思う。keyboardがスッキリしてるのだ。ATOKに1500円払うなら、電気消費が少将激しくても良いからSimejiにしておこうかと思えてくる。

Xiaomi Mi Mix2が熱い!

ようやくApple依存性から解放されつつある。つまり、Appleのエコシステムに捕まり、Apple製品でなければ何にも出来ないように感じる、Apple依存性だ。さりとて、10万円超の端末はあまりにも高すぎる。私はブランド品に溺れるつもりは無い。

それがiPodやiPhone4などの古いApple端末を処理して、ようやく踏ん切りがついた。って言うか、実はもうiPhoneXsとかiPadProとか買ってしまって、Android機は軒並み売ってしまおうと本気でメルカリなんかに出していた。しかし、ここで私の持つAndroid愛に気づいて、むしろ「より中華寄り」になったのだ。

勿論iPhoneにもイイ所はいっぱいあるが、パフォーマンスを求めるなら、やっぱ中華だろう。使ってて気も使わないし。そのくせ、このXiaomiだって、RAMが6GBもあるのだ。iPhoneだったら、XsのMAXで、それもROM1TBの買わなきゃならない。中華にかかるコストの2倍から3倍だ。

しばらくHuaweiとこのXiaomiの2台体制でいくつもり。2台とも、とっても幸せになれる端末だ。

Androidで行くと決心したこと。

スマホの掃除をした。とは言っても、スマホを磨き上げた訳では無い。私の端末所有数を減らしたのだ。

切っ掛けは、ミニマリズム的な生活をしている坊さんの本を読んだこと。著者自身は、自分の生活がミニマリズムだとは言ってないが、禅僧なので、元祖ミニマリズムみたいなものだ。

その彼が著作の中で言うには、モノが増えれば増えるほどココロのノイズが増えると言うのだ。「コレだ!」と思った。私の今の状態がまさにそれなのだ。この年末年始、スマホのことで「決着」がつけられなくて、ズッとイライラしているのだ。本当は一気に叩き売るか、捨ててしまえばいいのかもしれない。しかし、「せっかく買ったのに勿体無い」というノイズが立ち現れて、私の脳髄の中で観念が綱引きをするのだ。こういうどっちつかずの、決められない状態って、すごく神経に悪い。そういうイライラを朝から晩まで続けているのだ。これは立派なビョーキだって言えるだろう。

早く、この状態に決着をつけたくて、昨日「twitter用」にまだ持ってるiPod touch (第4世代)を4台ともフォーマットしてネット端末としては使えないようにした。これからは時計・ストップウォッチあるいはメモとして使っていくつもりだ。

 そうすることで何か楽になった。何でだろう?

今の直感で言えば、メインはAndroidで行きたい。論文なんか書いてると、連携のエコシステが出来上がってるAppleの端末の方がしっかりしているように思える。

でも、考えてみれば、私の書く「論文」が一体なんぼのもんなんだ?そんなにまでたかい端末揃えて万全の体制を取って書かなければならないものなんだろうか?全然そんなこと無いかな。

なんか頭が煮詰まってる。「~~~ねばならない」、「~~~じゃ無ければならない」に凝り固まっている。脳髄が硬直してるみたい。

Appleでなければならない理由のもっとも大きな理由は、Apple端末のデフォルトの「メモ」の連携がスグれものなので、何時でも何処でも、どんな端末からでも書けるっていうことなんだけど、同じようなことはGoogleドライブで出来る。むしろそっちの方が端末に依存していないからイイと思う。ここで又連携が云々言うんだったら、再度言いたい。「お前の書く文章がいったいナンボのもんなんだ」と。

ちょっと前までは、「やっぱりAppleのエコシステムって最高だから、iPhoneiPad、それにMacBookで行こう」と思ってたけど、そこまでAppleに取り囲まれて生きたいのか。それがApple信者ってもんだけど、私は「信者」にはなりたくない。不自由だから。

せっかくAndroidの鷹揚さ(ある意味ダラしなさ)と自由さを知ったのに、それを捨て去ることも無かろう。

iPhoneはゲーム端末、音楽(iTunes)端末、ポッドキャスト端末、iTunesUを使ったラーニング端末で良いと思うんだ。要するにラーニング端末ってこと。だから、新しい端末を買うなんてことしなくていい。そういう機能さえ使えればイイのだ。

iPhoneにはそういう機能で使うことを徹底させるために、デフォルト以外のアプリはインストールしないようにしよう。したとしても、GoogleドライブかマイクロソフトOfficeぐらいにしておこう。

うん、それがいい。オレ(!)はAndroidでいく。

1年前の「勝利の方程式」

久しぶりにポッドキャストの「ラジオ食堂」を聴いた。ここんとこ長らく遠ざかっていたが、iPodを手にして又聴いてみたのだ。

懐かしい感覚が戻ってきた。下らないことをグダグダ言っているようで、実は精神衛生上効果の高い何かを持っている特別な放送だ。

この放送を聞いた途端、この所の私の「迷い」は一気に晴れた。

私の精神の危機は、なにか不必要なモノへの入れ込みとこだわりと迷いが「煮詰まっていく」形で進むのだが、昨年末から年初にかけて、その精神不全症状に見舞われていた。

それが、この「ラジオ食堂」を一聴することで、一気に霧が晴れた感じだ。

この精神の霧が晴れると同時に、ガジェットへのこだわりも無くなった。実はついさっきまで、ガジェットはApple製品に統一し、Androidは捨てるか売るかしてしまおうと思ってた。Android端末には、Appleのような、知的なものへの「志」が無いから、私には「不用」だと思ってた。

しかし、ラジオ食堂を聴いて私がインスパイア(何がどうインスパイアされたかは自分でも不明)されたのは、私には「志」も「知的なもの」も、それからiPhoneも不要なのだと悟った。

それよりも、雑然としたもの、どーでもいいモノを受け入れ、中華タブ触ってるのが、一番精神的に健康的で救われてる状態なのだと知った。

そうなのだ。ようやく私の最も安楽で自然な形に戻ることが出来た。

良かった、良かった。

 

構造主義入門の書

ソシュールフーコー、バルト、ストロース、そしてラカン・・・。
少なくとも10回は読まなければ理解できないような難解な現代思想史を平易に、コンパクトにまとめたエントリー本。1920年〜30年代の東欧、ロシアを中心として突出した新しい学知の波の中から生まれたのが「構造主義」と言われているが、まったくの素人でも抵抗なく読めるように書かれているからありがたい。

「知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、”答えを出すこと”ではなく、”重要な問いの下にアンダーラインを引くこと”なのだ」そして、自明なものだあらこそ研究するい意味がある」との著者のスタンスに勇気づけられ、再度チャレンジしてみようという気にさせられた。