双撃日記

「中華ガジェット」はわが癒し。

ワタシがブログを書く理由。

さっき片岡義男の「日本語で生きるとは」(筑摩書房)という本を読んでいて分かったのだが、ワタシがこのブログを書いているのは「ワタシ」とは誰であるのかを明らかにするためなのだ。「ワタシ」が「ワタシ」を自覚しない限り「ワタシ」はどこにも存在しない。未来永劫に。しかし、文章を書くことでワタシがワタシを自覚し、それをネットの上に残すことで「存在」が得られるのだ。生かされることが「承認」されるのだと言っていいかもしれない。

片岡は言う。地球上に住む全てのヒトは全て「ユー」だと。それこそ無限無数の「ユー」がワタシを取り巻いているのだ。しかし、ワタシにとっての「ワタシ」はたった1人しかいない。ワタシにとってまったく交換不能である存在、それが「ワタシ」なのだ。

その「ワタシ」のした事、思ったこと、感じたことは誰の気に留められることも無くそのまま消え去っていく。それらはその時のワタシにとって自明のことだからだ。しかし、それが明日になり、来年になり、10年20年経てば、あった事さえ忘れられている。ワタシという本人も忘れている。その孤独さ虚無の大きさって、あまりにも大きいのではないか?

もちろん、だからと言ってどうする事も出来ないのだが、せめて文字に残すことで何かが違ってくるのでは。それも存在の根っこにおいて。それがワタシがブログを書く理由なのだとなんと無く分かってきた。